関西おだしとは

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 「出汁」と書いて「だし」と読みます。この言葉のルーツは、「煮出」であり、いつしか汁の読みがなくなり、だしというようになりました。「だし蔵」が求めてやまないのは、昆布、鰹など色んなエキスが詰まっただしで、その読みの通り、まさしく汁がなく、調合したものを指します。  考えれば、だしの歴史は古く、大和朝廷の治世には、すでに鰹節の先祖的なものがあったと伝えられています。室町時代に入ると、かの蝦夷地(北海道)に大量の昆布があることを知っていたようで、当時は宇賀昆布の名で京に運び込まれていました。江戸時代になって河村瑞賢が西廻り航路を開発すると、上方の和食は一気に花開きます。松前(北海道)で昆布を積んだ船が酒田(山形)、敦賀・小浜(福井)と寄り、下関(山口)を経て大坂へと到着。これで蝦夷地の昆布が大量に大坂や京へやって来るようになったのです。昆布で摂っただしは、和食に見事にマッチし、関西の薄味のもとになりました。和食の職人達は、昆布だしの旨みを使って色んな料理を編み出しました。それが現代の和食にも受け継がれているのです。  一方、鰹節をだしに使い始めたのは、戦国から江戸時代にかけて。江戸時代初期には、印南浦(和歌山)で角屋甚太郎が鰹を煙で燻して水分を抜く、いわゆる燻乾法を見つけています。紀州で考案された鰹節がやがて土佐へ―。紀州の漁師であった二代目甚太郎が漁に出て遭難し、土佐へ流れ着きました。そこで彼は、煙で燻して乾燥させる熊野節(本荒節の原型)・燻乾法を伝えています。これによって土佐でも鰹節づくりが発展。土佐藩はしばらくの間、このつくり方を隠していたために当時は紀州と土佐の二国しか鰹節づくりが行われていません。ところが1700年代に入って土佐与市(紀州与一とも呼ぶ)が封を解き、房州千倉(千葉)へ伝え、さらに伊豆・田子(静岡)に伝えたために全国的に鰹節づくりが普及し始めました。今でも房州節や伊豆節の名が聞かれるのは、それが因で、この後、太平洋沿岸に広く伝わって行ったそうです。  昆布と鰹節をうまく合わせてだしを作ったのは、どうやら上方人だったようです。和食を語るには、大坂出汁の発明は避けて通れぬほど重要で、真昆布と鰹の合わせだしであるそれは、永代濱ができた江戸時代初期の発見ではなかったかともいわれています。干鰯や塩魚、干魚だけでなく、永代濱があった靭(今の靭公園近く)には、鰹節や昆布を扱う店が軒を連ねていたそうですから真実味のある話です。  食い倒れの町として大阪が有名になったのは、明治時代以降。江戸時代も天下の台所と称され、全国から物が集まっていたのですが、明治期に入ると、船場の商人達が食文化そのものを発展させ、今の礎をつくり始めます。彼らは「ハレ」と「ケ」をうまく使い分け、料理屋を使いこなすことで商談をいい方向へと導いていったのです。当初は商家の催事は、自家でやったり、仕出し屋に頼ったりしていましたが、いつしかその場も料理屋へと移り、それと同時に調理レベルもアップしていきました。かつて船場の商人達が、関西のだし文化の礎をつくり、食文化を育んだことは事実。しかし、今の船場はビル街となってしまい、その文化を継承する術すら見失ったかのようです。それなら糸偏がこぞって移転し、船場の名を留めた箕面(北摂)の地で文化継承をすべきで、それが「だし蔵」に課せられた使命だと考えます。

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