<「かつお節」の製造方法 2.茹で作業~いぶし作業>

 

かつお節」作りの工程は大きくわけると、

 

1、原料の処理 → 2、茹で作業 → 3、いぶし作業 → 4、カビ付け作業

 

の4段階で、最初の原料の処理で行う「生切り」と言う過程を経た鰹は、「煮熟(しゃじゅく)」と呼ばれる茹での作業を行いやすくするために、熱の通りの良い容器に、加熱されても形がくずれないように整然と並べる「籠立て(かごだて)」という工程に進みます。単純な作業ですが、乱雑に鰹を並べると、鰹が反り返ったり、曲がって、形の悪い「かつお節」が出来上がってしまうため、決して手の抜けない作業でもあります。

 「籠立て」をした容器は8~10枚重ねられ、ウインチでつり上げられてから、80℃~95℃の湯をたたえた煮釜の中に漬けられ、その大きさにより、約1時間30分から2時間、「煮熟」されます。この時、鰹の状態に応じ、適切な温度で適切な時間煮ることで、真っ直ぐでふっくらと締まった節が出来上がるわけですが、もし温度や時間を間違えると、曲がったり、締まらずに伸びきった節になってしまいます。

 化学的に言うと「煮熟」は、高温により鰹のタンパク質を完全に熱凝固させることで、魚肉に含まれている遊離水を分離し、付着した細菌や魚体内の酵素の作用を失わさせ、腐敗を防止すると同時に「熟成」を止め、旨み成分を封じ込める重要工程です。また生臭みを消す作用もあります。ちなみにこの「煮熟」に使われた茹で汁は、何回か使用した後、調味料メーカーが買い取り、濃縮させて、1000年以上前から「堅魚煎汁(かつおのいろり)」などと呼ばれる「かつお風味調味料」に加工しているところもあり、まさに無駄なく使われています。

 こうして「煮熟」された鰹は、残っている小さな骨を抜き、余計な皮や鱗を剥がします。その後、骨抜きにより生じた隙間や亀裂を、「生切り」で身を卸した時に出た、中落ちと呼ばれる中骨の周りについた身などを集めて、お湯で茹で、その後に生肉を2割~3割ほど混ぜて作った“すり身”を使って「修繕」し、節にするための形を整えます。

 この後、「かつお節」加工のメインとなる燻製(くんせい)乾燥の作業に入るわけですが、この「煮熟」を終えた段階のもの、もしくは1回だけ燻乾したものを、その色目が鉛のように見えることから「なまり節」、または関西では「なま節」と呼ばれ、40%前後の水分を含むため貯蔵性はなく、「かつお節」のようにだしをとるのには使いませんが、そのまま煮付けにしたりして食べると美味しいため、鰹の産地を中心に商品としても作られています。現在「なまり節」の最大加工地は、鰹の漁獲量No. 1の静岡で、全国シェアは50%以上です。

 

 「煮熟」し、形を整えられた鰹は、乾燥室に並べられ、「燻(いぶ)し」と言って、堅木を燃やして、下から、煙と熱を節にあてて、時間をかけて節の表面の水分を飛ばします。一度燻しただけでは、表面は乾いても、節の内部の水分はまだ沢山残っているため、一旦節を常温で一晩冷やして、節内部から水分を表面に出させます。この工程は「あん蒸(あんじょう)」 と呼ばれています。

 「燻(いぶ)し」と「あん蒸」を、節の大きさに応じて6回から15回程度繰り返し、節の水分量を30% 以下にまで減少させます。 この工程を「燻乾」または「焙乾(ばいかん)」と呼びます。薪の煙は節に芳香を与え、タール分を節の表面に付着させます。 このタール分の化学的な意義は、節のもつ脂肪分の酸化防止と節の腐敗防止です。薪の種類や置き方や火力の調整、燻す時間の違いなどによって、出来上がりが変わり、「かつお節」の味と香りを決める上で重要な工程です。

 中でも「一番火」と呼ばれる、最初の燻しは大切で、「水切り焙乾」とも呼ばれ、通常70℃前後で5時間程度行う「二番火」以降の燻しに対し、「一番火」は85~90℃の高温で1時間程度一気に熱することで、表面の水分を除き、雑菌を殺してネトと呼ばれる表面にできる雑菌の集落の発生を防ぎます。

 燻す方法は、地方によりさまざまで、例えば、今や幻とさえ言われる静岡県御前崎(おまえざき)地方の、数件でしか行われていない伊豆節の伝統製法「手火山(てびやま)式焙乾法」は、直火で燻すことにより、強い熱をまんべんなく節に行き渡らせ、節の乾燥も均一に行うことで、鰹の美味しさを中に閉じ込めるという製法です。

 その日の気温や湿度、薪の乾燥度合い、そしてさらに、魚の大きさと脂肪の有る無しなど、さまざまな条件から判断し、火ぶくれと言って、過度の高温による過熱によって、節の表面が膨れてしまうことの無いように火加減に注意しながら、火ぶくれ寸前の高温で燻しを行わなければ、より香り高い「かつお節」の製造が出来ないため、火の調節に非常に熟練を要し、後継者不足が課題となっています。

 現在の主流は、主に鹿児島県の枕崎、山川地区で行われている「焚納屋(たきなや)式焙乾法」で、2階建て構造で1階の火床で薪を燃やして熱と燻煙を発生させ、急造庫(きゅうぞっこ)と呼ばれる、2階に入れてある節を自然対流によってじっくりと焙乾する、もっとも通常の燻製に近い方法で、「急造庫式焙乾」とも呼ばれています。その他には、火床で薪を燃やして発生させた熱と煤煙を、上部のファンで強制的に庫内に導入し焙乾を行う「焼津式」があり、他の焙乾法に比べマイルドな節に仕上がります。

 こうして燻された節の表面は煙の中に含まれるタールに覆われて黒くなり、表面がザラザラとしていることから「荒節(あらぶし)」または「鬼節(おにぶし)」と呼ばれています。一般的な「花かつお」や「削り節」は加工のしやすさから、この「荒節」を削って作っていますし、このあとの工程で出来上がる「仕上げ節」に比べ、パンチが強く、切れのよい「だし」が取れるため、特に関西では好んで使用されています。

 

<「かつお節」の製造方法 1.原料の処理>

 

 「だし」を取るための素材としては、「かつお節」ほど手間暇をかけて加工をしている食品は世界的に見ても例がなく、それにより魚の加工品としてはトップクラスの保存性と、一般的に長時間の煮出しを必要とする海外の「だし」に対し、非常に短時間で濃い「うま味」を抽出するインスタント性を実現しています。

かつお節」作りの工程は大きくわけると、

 

1、原料の処理 → 2、茹で作業 → 3、いぶし作業 → 4、カビ付け作業

 

の4段階で、細かくは10以上の工程を経て、ようやく完成することができます。

 それぞれの工程において、地域や業者によって、いろいろなやり方がありますが、ここでは基本的な方法を解説していきます。

 

 まずは原料ですが、もちろん「」です。「かつお節」と呼べるのは厳密に言うと、「真鰹(まがつお)」や「本鰹(ほんかつお)」とも呼ばれるいわゆる「カツオ」を使用したもののみです。実は「」には、その他に「ハガツオ」、「スマガツオ」、「ヒラソウダガツオ」、「マルソウダガツオ」といった種類があます。どの品種も「」に加工されていて、「ヒラソウダガツオ」、「マルソウダガツオ」に関しては、「宗田節(そうだぶし)」や、関西では魚の特徴から「目近節(めじかぶし)」と呼ばれ、区別されていますが、「ハガツオ」、「スマガツオ」の節については「かつお節」として販売されているのが現状です。

 日本近海の鰹は、太平洋側を春から初夏にかけて北上し、秋口に南下します。鰹は餌をたくさん食べながら移動するため、次第に太って脂が乗っていき、いわゆる秋口に獲れる南に下る「戻り鰹」は美味しいというこになるわけです。しかし「かつお節」の原料としては、脂の乗ったまるまる太った鰹は向きません。

 これは脂分が、鰹を乾燥させていくときに邪魔になり傷みやすくなることと、「だし」にしたとき、雑味やにごりの原因になるためで、理想としては1~2%の脂分のものが最良とされています。ですので、「かつお節」には、4~7月に漁獲した鰹が脂肪が少なく原料にもっとも適しており、この鰹を使った「かつお節」を「春節」と呼び、8~10月の鰹を使った「秋節」より上質だと言われています。

 また、春節は乾燥工程の時期が真夏に重なり、そういう意味からも最適の時期に当たります。地域別に見ると、九州沖から伊豆七島にかけて漁獲されるものが「春節」の時期に当り、東北沿岸域のものが「秋節」となります。

 このことから昔から薩摩節・土佐節・焼津節・伊豆節は上物で、三陸節など東北の節は劣ると言われてきたようです。

 ただ現在では、近海ものの鰹の減少や漁法、冷凍技術の発達により、遠洋漁業で漁獲されたものが大幅に増えており、季節や地域による差はまったく当てはまらなくなっています。ちなみに同じ時期であれば、近海より遠洋で漁獲された鰹のほうが脂肪が少なく、また雌より雄の鰹のほうが、脂肪が少ないことがわかっています。

 

 さて「かつお節」の工程のお話に入りますが、現在は原料がほとんど冷凍であるため、まずは「解凍」と「洗浄」をすることが最初の作業となります。解凍方法は、鰹を水槽に入れ、水を2、3回入れ替えながら、季節や湿度等の条件で解凍時間を調整しながら行います。解凍をしっかりしないと魚肉に軽石のような小さな穴が空いてしまうため、この工程は、丸一日掛りの大切な工程となります。

 冷凍の鰹は鮮度は高いのですが、製造工程上、鮮度が良すぎても茹でたときに身割れを起こしやすくなりますし、「うま味」も少ないことが判っています。鰹は解凍されると同時に、自己消化が始まり、酵素の働きによって生物の遺伝子の本体である「デオキシリボ核酸」、いわゆる「DNA」に代表される、体にとって最も重要な化学物質である「核酸」が、「アデノシン」という物質に分解され、さらに「うま味」成分である「イノシン酸」が作られはじめます。つまり「うま味」成分である「イノシン酸」は、生きた鰹には存在せず、死後、一定時間が過ぎた時に、自己消化の途中で作られるため、鮮度の良すぎる鰹は「うま味」成分が少ないというわけです。

 この「イノシン酸」のように、動物の体内に含まれる核酸やタンパク質が、酵素と温度、湿度、時間など外的環境との総合作用により分解されて、特殊なうま味成を作り出す工程を、「熟成」または歳をとらせるという意味の「エイジング」、また調理現場においては食品を「寝かせる」「仕込む」といった呼び方がされています。これらの言い方は、自身の細胞に含まれる分解酵素により分解される状態を指し、微生物の活動による分解は「発酵」と呼び、区別します。

 

 このように解凍と同時に絶妙に「熟成」させた鰹を、次に手早く切り分けていきます。この工程を「生切り」と呼びます。

 「生切り」の手順は、まずは「頭切り」と呼ばれる、鰹の頭を包丁やヘッドカッターと呼ばれる機械を用いて頭を落とす作業から始まります。次が「腹皮取り(はらがわとり)」と呼ばれる鰹の腹皮と内臓を取る作業です。腹皮とは鰹の腹の身の部分で、鰹の部位の中で一番脂がのっているところです。この部分は節には向かないため切り取り、天日に干したり、新鮮なものは生のまま、「カツオの腹皮」や「はらんぼ」などと呼ばれ売られます。これは焼いて食べると抜群に旨い肴になりますので、機会があればぜひお試しください。

 

 続いて、「背皮剥ぎ(せがわはぎ)」と呼ばれる、鰹の背ビレとその周辺にある、鰹の名前の由来でもある固い皮を剥ぎ取る作業です。これが終わると「身卸し」と呼ばれる、身と骨を切り分ける、いわゆる「3枚おろし」の作業に入ります。

 そうして鰹の大きさに応じて、だいたい2~3kg以上のものはさらに「合断(あいだち)」と呼ばれる鰹の半身を、更に血合の部分を境にして背と腹に切り分ける作業を行い、「本節」として加工していきます。このとき鰹の背部からつくられるものを「雄節(おぶし)」、腹部のほうからつくられるものを「雌節(めぶし)」と呼びます。それ以下の小さい鰹は、3枚におろしたままの身を使い、その形状から「亀節」を呼ばれる節に加工します。この2つは形状の違いだけで味はほとんど変わりませんが、「亀節」は小さくて手間がかかるので、あまり作られていないのが現状です。

 ここまでが、「かつお節」を作っていくための原料の処理となります。

 

<「かつお節」の歴史>

 

 現在の「かつお節」製法の基礎は、江戸時代、和歌山県印南(いなみ)町の2代目角屋甚太郎によって発明され、「改良土佐節」として、当初、紀州藩と土佐藩のみの門外不出の秘伝として、長らく守られていました。

 甚太郎は、たまたま土佐から妻とともに、故郷である印南町に滞在していた1707年10月28日(旧暦:宝永4年10月4日)に、不幸にも江戸時代最大級の地震「宝永南海地震」、いわゆる南海トラフ地震が起こり、その時発生した津波で亡くなったことが判っています。

 現在、2代目甚太郎の功績を讃え、甚太郎が亡くなった10月28日を、株式会社太鼓亭が印南町と連携して日本記念日協会に申請し、「おだしの日」として、登録しました

 

 さて、紀州藩と土佐藩のみの門外不出の秘伝となった「かつお節」製法は、いかにして日本中に広がっていったのでしょうか。

 まず、最初にこの製法を手に入れたのは、今や「かつお節」製造のなんと70%以上のシェアを誇る、断トツ日本一の鹿児島県、つまり薩摩藩でした。当時、薩摩藩は江戸幕府の鎖国政策により、海外貿易の窓口を長崎に限られ、収入源であった中国との貿易を禁じられたため、大変な財政難に陥っていました。そこで力を入れたのが、比較的漁獲量の多かった鰹を利用した「かつお節」製造でした。しかし、技術はまだまだ未熟だったため、どうしても土佐節にはかないません。

 そのため、薩摩藩は印南の高い技術に目をつけ、「かつお節」職人の引き抜きに動きます。この時、薩摩藩に引き抜かれたのが、印南の漁師であり、優秀な「かつお節」職人であった人物が「森 弥兵衛(もりやへえ)」です。

 しかしなぜ弥兵衛は、そんなことをすれば2度と紀州に戻れなくなることを承知で、当時紀州藩、土佐藩の門外不出の秘伝であった2代目角屋甚太郎が考案した「かつお節」製法を薩摩藩に伝えてしまったのでしょう。

 実は弥兵衛が、薩摩藩に製法を伝えた年というのは、2代目角屋甚太郎が亡くなった「宝永南海地震」があった1707年(宝永4年)だったことが判っています。憶測ではありますが、弥兵衛も、通常の状態なら藩の掟を破ってまで、薩摩藩に肩入れする理由はなかったでしょうが、当時、地震の大津波の影響で壊滅的な被害をうけた印南町に将来を見通せず、未練をなくしてしまっていたのかもしれません。

 まさにこの1707年10月28日(旧暦:宝永4年10月4日)に発生した地震「宝永南海地震」は、「だし」の歴史を語るうえで、大きなターニングポイントだったわけです。

 その後「薩摩節」の製造は、森 弥兵衛から伝えられた「かつお節」製法により、急速に品質が向上していき、1700年前半までは全国的には全く知られていなかった「薩摩節」が、1700年の半ばより浮上し、1700年後半となる寛政年間には、国の最南に位置する薩摩で作られ、流通面では不利であったはずの「薩摩節」が、それを品質の良さで跳ね返し、突如として全国一流品にのし上がっていたことが、数々の文献から明らかになっています。

 ちなみに弥兵衛は、技術の伝承後、薩摩藩に温かく迎え入れられ、1714年(正徳4年)10月20日、鹿児島でその生涯を閉じたそうです。

 さてこうして、2代目角屋甚太郎の考案した秘伝の「かつお節」製法は薩摩藩に伝授されてしまったものの、それ以降は門外不出の掟はさらに強化され、その後70年以上秘伝の製法が、紀州藩、土佐藩以外に洩れることはなく、さらにその製法は、改良、改善され、その品質は高くなっていきました。

 中でもその技術を大きく発展させたのが、1758年(宝暦8年)に印南町で生まれた「かつお節」職人の善五郎、後の「印南與一(いなみよいち)」です。

 與一は、20代半ばには印南漁民が多く滞在し、「かつお節」を作っていた土佐において、鰹を燻す焙乾の方法や、かび付けの方法などを改良して有名となり、土佐與一(とさよいち)と呼ばれるようにまでなっていました。

 しかし、土佐藩においても、1707年(宝永4年)に発生した「宝永南海地震」以降、「かつお節」製造が、徐々に衰退しており、「かつお節」作りに行き詰まりを感じた與一は、30歳ごろ土佐を飛び出て、東国の港町を転々とする旅に出たのです。

 しかし当てもない旅で與一はかなり貧窮していたようで、そんな中、現在の千葉県南房総市(みなみぼうそうし)千倉町(ちくらちょう)にあたる安房国(あわのくに)南朝夷村(みなみあさいむら)にたどり着いた時、村の網元であった「渡辺久右衛門(わたなべ きゅうえもん)」に厚遇され、その温かい人情にふれた與一は、掟を破り、「かつお節」製造の秘法を伝授してしまいました。この製法は瞬く間に、南朝夷村を中心に近隣各地に普及し、安房国の「かつお節」の品質を一変させ、「安房節(あわぶし)」や房州熊野節を略した「房熊節」などと呼ばれ、江戸の市場で、土佐節と並んで大人気となり、安房国の漁業は大いに栄えたそうです。

 與一はその後、安房国の噂を聞いた現在の静岡県賀茂郡西伊豆町にあたる伊豆安良里(いず あらり)に招かれ、そこでも秘伝の製法を教えています。こうして與一の伝えた「かつお節」製法により、土佐や薩摩など遠方に頼っていた「かつお節」事情は大きく変わり、関西の“昆布だし文化”に対し、関東に“かつお節文化”が根付くきっかけとなったわけです。

 当の與一は、50歳になったころ、望郷の念にかられて、故郷紀州印南村に帰りますが、当然與一のやったことは紀州藩にも伝わっており、掟を破った與一は入村を許されず、追い返されてしまいます。その後、與一は、しかたなく安房に戻り、再び渡辺久右衛門の世話となり、日夜「かつお節」作りに努めたそうで、1816年(文化12年)3月23日、風邪をこじらせ、58歳でその生涯を安房の地で終えました。

 このようにして東西に広がった2代目角屋甚太郎が考案した「燻乾(くんかん)カビ付け法」は、それぞれの地でさらに独自の改良が加えられ、明治時代には、高知の「土佐節」鹿児島の「薩摩節」静岡の「伊豆節」が、「かつお節」の三大名産品と呼ばれるようになり、「和食」を支える「だし」の要として、進化、発展してきたわけです。

 現在その生産量は鹿児島産が約70%、静岡産が約25%、高知産が約1%と大きく差は開きましたが、この3県が「かつお節」生産量のトップ3であることは今も変わっていません。

 

<「かつお節」の発祥>

 

 昆布と並び、和食の「だし」の代表格である「かつお節」は、サバ科の「まがつお」を材料とし、魚体から頭、鰭(ひれ)、腹皮(はらかわ)と呼ばれる腹部の脂肪の多い部分を切り落とし、三枚以上におろして、「節(ふし)」と呼ばれる舟形に整形してから加工された物です。

 その素材である「かつお」と日本人との関係は古く、青森県の八戸遺跡などからはすでに紀元前の縄文時代には鰹が食べられていた形跡がみつかっており、5世紀頃には現在の「かつお節」とはかなり異なりはするものの、干物のような「かつお節」が作られていたようです。

 飛鳥時代701年(大宝1年)に制定された日本古代の法典である「大宝律令(たいほうりつりょう)」には、こうした干し鰹と思われる「堅魚(かつお)」や「煮堅魚(にがつお)」、そして「堅魚煎汁(かつおのいろり)」と呼ばれる鰹を煮込だ煮汁を飴状になるまで煮込んだ調味料が献納品として指定されており、すでにこの時代、鰹は日本人にとって重要な魚であったことがうかがえます。

 そこから時代は進み、室町時代1489年(延徳元年)のものとされる「四条流包丁書」の中には「花鰹」の文字があり、その名前から鰹の加工品を削ったものと考えられます。このことから、この時すでに「かつお節」は単なる干物ではなく、かなりの硬さのものとなっていたことが想像できます。

 しかし、現在のように世界一固い食材として、ギネスブックにも載るほどの現在の「かつお節」の製法が生まれたのは、江戸時代の中期だったことが現在判っています。

 その製法が生まれた、いわゆる「かつお節」発祥の地は、実は現在「かつお節」生産量の70%を占める鹿児島でもなければ、「鰹のたたき」で有名な、高知県や鰹の漁獲量No. 1の静岡県でもなく、和歌山県印南(印南)町でした。

 この印南町の一人の漁師が開発した「かつお節」製法」が、のちに高知や鹿児島、そして静岡、千葉へと同じ印南の人たちによって、伝えられていき、現在私たちが、「だし」の美味しさを楽しむことができるわけですが、そこにはいくつものドラマがありました。

 今も昔もその周辺では鰹がほとんど取れることがない紀伊半島の西側にある印南の漁民は、江戸時代の初め、「潮御崎会合(しおのみさきえごう)」と呼ばれる、鰹漁を中心とした、今で言う広域漁業組合に入って、紀伊半島の北側、潮岬(しおのみさき)周辺で漁をしていました。

 しかし平安時代末期、源平合戦で活躍したことで有名な「熊野水軍」の末裔とも言われる印南漁民は、鰹で何人もの豪商の船主が生まれるほどに腕が良かったため、ほどなく紀州沖から閉め出されてしまい、印南漁民は、しかたなく紀州沖を飛び出し、船団を率いて東西の海に漁場を広げて行ったわけです。

 そんな中、印南の豪商のひとつであった「角屋」の甚太郎が、1651年(慶安5年)に、現在の高知県、土佐の足摺岬(あしずりみさき)沖に、格好の鰹の漁場を見つけ、印南漁民は、足摺岬を「据え浦(すえうら)」と呼ばれる鰹漁の本拠地として、1年のうち9~10ヵ月間を土佐で過ごすようになりました。

 しかし、鰹は非常に傷み易く、いかにして印南(いなみ)に持って帰るかという課題に悩まされることになります。

 その時、甚太郎が土佐に伝えたのが、鰹の漁法と「焙乾法(ばいかんほう)」と呼ばれる和歌山の熊野で開発された「かつお節製法」だったと言われています。

焙乾法」とは、切り分けた鰹をお湯で茹でる煮熟(しゃじゅく)と呼ばれる作業をしたものを、薪(まき)を燃やして、その煙で鰹をいぶして水気を取り、木材のように硬く「かつお節」を仕上げる製法で、この製法を土佐藩は、藩を上げて導入し、いままで天日で乾かしたり、藁(わら)を燃やして乾燥させるだけであった土佐の「かつお節」は、一気に人気を得たようです。

 こうして甚太郎の努力により、土佐藩の「かつお節」の品質と保存性は、紀州藩の「熊野節」と同様に格段に向上しました。

 しかしながら江戸時代、土佐や紀州から、天下の台所と言われた大坂に、船で「かつお節」を運ぶ間に、海の湿気でカビが発生するという問題がもう一つ残っていました。

 この問題に取り組み、画期的な製法を考案したのが、甚太郎の息子で同じ名前の2代目甚太郎です。2代目甚太郎は、父の志を継ぎ、仲間と一緒に試行錯誤した結果、現代の「かつお枯節(かれぶし)」と呼ばれる製法の元となった「燻乾(くんかん)カビ付け法」を発明したのです。

 それは、つまり「毒をもって、毒を制す」。どうせカビが付くんなら、最初からカビを付けてしまおうという逆転の発想でした。

悪玉カビの発生防止策として、善玉カビを一回付けた後、天日でよく乾かすという製法は「節一乾(ふしいっかん)」とも呼ばれ、これにより紀州藩と土佐藩の「かつお節」の保存性は格段に向上し、しかも副次効果として、カビが、「かつお節」の雑味と濁りの原因となる脂肪を分解してくれることで、味と香りも良くなり、澄んだ「だし」が取れるようになりました。

こうして2代目甚太郎によって作られた節は「改良土佐節」と呼ばれ、江戸でも人気を博し、土佐節は全盛期を迎えることになります。

この「改良土佐節」の作り方こそが、現在の「かつお節」製法の基礎であり、発祥であると言われています。

<「だし昆布」の栄養>

 

 昆布は「喜ぶ」に通じる縁起物としても有名ですが、 これは単なる語呂合わせではなく、栄養学的に見ても身体が喜ぶ、大変良い食材です。

栄養学のない奈良時代から、昆布は薬として使われるなど、経験的に身体に良いことが知られていましたが、現在その効用が化学的に次々と証明されてきています。

 まず、有名なところでは、昆布のねばねば成分である「フコイダン」や「アルギン酸」といった水溶性食物繊維。これらは激しい海流の中で多くの魚介類とともに生きる海藻が、自らの身を守るためにつくりだす成分で、菌が入らないように守ったり、キズがつくとねばり成分が外にでて、健やかに保つための修復力・防御力の役割をしている、いわば「天然の防壁」ともいえる存在で、摂取すると糖質や脂質の吸収を抑えコレステロール値の上昇を抑えてくれます。特に「フコイダン」は、免疫細胞を活性化する作用があり、崩れた免疫システムのバランスを調整するよう作用し、アレルギーの原因となるIgE抗体が過剰につくられるのを抑制する効果があり、免疫力を高め、アレルギーの改善作用があるといわれています。さらにガン予防にも効果あると言われています。

 また、体の組織を作ったり、脳を構成する物質や脳内の伝達物質の生成を行い脳機能を向上させるなどの、大切な栄養素である「カルシウム」、「」、「ナトリウム」、「カリウム」、「ヨウ素」などの「ミネラル」も多く含まれており、例えば、昆布に含まれる「ミネラル」量は牛乳の約23倍「カルシウム」は約7倍「鉄分」は約39倍も含まれています。

 しかも昆布には、海の中にあるミネラルを吸収して、人間に有害な物はあまり吸収しないという特徴があり、さらに、人の身体に流れる血液やリンパ液は、海水の成分と似ているので、他の食品に含まれるミネラルに比べ、昆布のミネラルは体内への消化吸収率が高く、その約80%が体内に吸収されると言われています。

 

 ただ、ミネラルの中で「ヨウ素」は、食べ過ぎると甲状腺の機能低下を引き起こすため、ワカメの20倍以上のヨウ素を含む昆布は身体に悪いと言う人もいますが、普通に食べる量では、通常問題ありません。

 それどころか、「ヨウ素」は甲状腺ホルモンの主原料で、新陳代謝を促したり、子どもの場合では、成長ホルモンとともに成長を促進する働きをするために体になくてはならない「ミネラル」で、昆布を食べる習慣のある日本人はほとんど気にすることのない栄養素ですが、世界的には摂取不足が問題になっている「ミネラル」の一つですし、実は昔から昆布を食べ続けてきた日本人は、摂り過ぎたヨウ素を、甲状腺を素通りさせて尿に排出する能力が海外の人に比べて優れており、過剰摂取に対して強いことが判っています。

 ただし、甲状腺疾患の方は、当然ヨウ素は控えたほうが良いので、お医者さんに相談してくださいね。

 その他、昆布に含まれる褐色の色素成分「フコキサンチン」には、脂肪の蓄積を抑えたまった体脂肪を燃やすたんぱく質「UCP-1」の活性を上げる、というダブルの作用があり、しかも主に内臓脂肪に届いて作用し、高めの血糖値を下げ、筋肉での糖の利用を促してくれるという素晴らしい成分ですし、昆布の“うま味”成分である「グルタミン酸」は、人がおいしいと感じる塩分濃度を低くしてくれるため、美味しく減塩することができ、胃にあるセンサーに作用して胃腸の働きを良くして過食を防いでくれるという、まさに美容と健康には欠かせない食べ物です。ちなみに、昆布のその色目からか、昆布が白髪予防になるとか、抜け毛予防になるとも言われていますが、それに関しては残念ながら科学的な根拠は見当たらないそうです。

このように、昆布は低カロリーで、「ミネラル」たっぷりの食材で、そのほとんどが煮出すことで、「だし」に溶け出すので、健康や美容のためにも「昆布だし」を積極的に利用してほしいと思います。

もちろん、煮出した後の昆布にも、食物繊維や栄養が残っているので、刻んでサラダに入れたり、つくだ煮にしたりして、ぜひ食べつくしてください。

 

<「だし昆布」の種類>

 

 現在、生物学的な「コンブ科」には14属45種があるようですが、「昆布」自体の名称は、生物学が生まれる以前からの名称であるため、アラメやクロメのように「コンブ科」であっても「昆布」と呼ばれず海藻扱いにされているものもあり、必ずしも名称と生物学的な分類とは一致していません。

 その中でも日本人が食用としている「昆布」は10種類程度で、その90%以上が北海道で収穫され、品種によって生育条件は限られているため、場所によって採れる昆布の種類は、ほぼ決まっています。また、その利用方法も、消費地域や用途によって使い分けられています。

 「だし昆布」としては、「真昆布(まこんぶ)」、「羅臼昆布(らうすこんぶ)」、「利尻昆布(りしりこんぶ)」、「日高昆布(ひだかこんぶ)」の4種類が主に使われています。

■真昆布(まこんぶ) 

真昆布」は、北海道の南部に位置する函館から函館近郊の恵山(えさん)を経て噴火湾(道内有数の漁場)あたりの地域に生育する昆布です。多くの別名をもっており、北海道の道南地方で採れるところから「道南昆布」と呼ばれたり、 江戸時代、函館で採れた昆布を北前船の出港地である小樽まで 運ぶ際に「山を越える」意味から 「函館から山を越えて出す昆布」 という事で「山出し昆布」と呼ばれたりもします。またその品質によっても銘柄が分れます。

 昆布は、日照条件や潮の流れ、山や川の入り具合と言った浜の地形や環境によってその品質が左右されるため、収穫される場所によってその品質はほぼ決まっており、これによって取引の価格差が生じることを「浜格差」と呼んでおり、その順位は昔から変わっていません。

 中でも道南北側、南茅部(みなみかやべ)で獲れる切り口が白い昆布を「白口浜真昆布」 、東側で獲れる切り口の黒い昆布を「黒口浜真昆布」、そして北側函館付近のものを「本場折浜真昆布」と呼び、道南の3大銘柄として真昆布のブランド名称になっています。中でも、天然の「白口浜真昆布」は江戸時代から三百年余り、朝廷・幕府への献上品 として奉納された献上昆布でもあり最も高級とされています。

 この「真昆布」は、主に「だし昆布」として利用されており、上品で透き通っていて独特の甘味がある“おだし”は、大阪でもっとも愛され、大阪で「だし昆布」といえば、大抵はこの「真昆布」を用い、取扱量は日本国内の90%に及びます。

 

■羅臼昆布(らうすこんぶ)

 「真昆布」と並ぶ昆布の最高級品である「羅臼昆布」は、北海道の道東地方にある知床(しれとこ)半島の根室側、羅臼沿岸のみで採れる昆布で、非常に大きくなるところから「オニ昆布」とも呼ばれます。香りがよくやわらかで、黄色味を帯びた濃厚でこくのある“おだし”が取れ、主に「だし昆布」として関東地方で使われており、その他の用途としては、食用として佃煮などにも適しています。

 現在では、関西でも消費量が多いのですが、使用され始めたのは明治時代からと、「真昆布」と比較すると関西では歴史の浅い昆布です。

 ただ、「北前船」の寄港地のひとつでもあり、江戸時代中期から薬売りとして北海道とつながりがあった富山県では、明治時代ごろから多くの人々が北海道に開拓民として移住しており、その多くが昆布をはじめとする漁業に従事し、中でも昆布王国の北海道羅臼町には、富山県黒部市の出身者が現在住民の7割を超えるほど多く移住しており、当時より交流が深かったこともあって、今も「羅臼昆布」の一大消費地となっています。

 

■利尻昆布(りしりこんぶ)

 「利尻昆布」は、京都で最も一般的な「だし昆布」であり、千枚漬、湯豆腐など用途が広く、料亭などでも使われており、「真昆布」や「羅臼昆布」に次ぐ高級品で、生産地は利尻島、礼文(れぶん)島及び稚内(わっかない)沿岸であり、礼文島香深(かふか)のものが最高級品とされています。

 「だし」の味は「真昆布」や「羅臼昆布」より薄いのですが、色が澄み、やや塩気のある「だし」は、素材の色や味を変えないため、京料理にマッチし重宝されています。

 さらに昆布を1年以上、長いものでは10年近く蔵の中で保管することで、昆布臭や磯臭さ、ぬめりを抜き、熟成を重ねて、「うま味」を増した「蔵囲い(くらがこい)昆布」と呼ばれる「利尻昆布」を使用している料亭もあります。

 

■日高昆布(ひだかこんぶ)

 関東での消費量がもっとも多く、一般的な「だし昆布」として用いられているのが「日高昆布」です。北海道の太平洋側、三石(みついし)町のある日高地方を主産地とするところから「三石昆布」とも呼ばれています。

日高昆布」は、早く煮え、非常に柔らかくなるので、昆布巻き、佃煮、おでん種など、昆布そのものを食べる料理に適していますが、「だし昆布」としてもよく使われてはいます。しかし、磯の香りが強く、他の昆布と比べると“うま味”成分であるグルタミン酸の含有量が少なく、物足りない感じを受けます。にもかかわらず、関東で多く使われているのは、江戸時代、昆布は北海道から「北前船」で、そのほとんどが大阪に集まり、そこから関東に運ばれ、必然的に質の良い「真昆布」「羅臼昆布」「利尻昆布」は地元関西で使われてしまい、当時もっとも収穫量も多かった「日高昆布」が、主に関東に送られていたという歴史があり、このことも関東で「昆布だし」文化が根付かなかった理由の一つと考えられます。

<「昆布だし」の歴史>

 

 昆布自体は奈良時代以前から、日本人の生活に関わってきた食材ですが、「だし」として昆布が活躍し始めたのは、江戸時代の初期だと言われています。江戸時代初期の代表的な料理書である「料理物語」1664年(寛文4年)の正月版には、昆布が精進の「だし」として使用されていることが紹介されており、「昆布だし」が料理の基本となっていたことが判ります。

 ただ、江戸時代この「昆布だし」をもっとも活用していたのは、やはり大阪京都など関西でした。


なぜ、関西だったのでしょう?

 北海道から遠い関西より、関東の方が昆布を仕入れ易いように思いますが、実は江戸時代、昆布のほとんが関西を通って全国に出荷されていました。

 当時の輸送手段は、当然ながら船が中心で、「北前船(きたまえぶね)」と呼ばれたその船の役割は、単に荷物を運ぶと言うよりは、各地の物産を売り買いしながら航海をする、動くマーケットのような存在で、廻船問屋(かいせんどんや)とも呼ばれた船問屋は、一航海すれば今の貨幣価値で言うと、1億円程度の収益が上がったと言われています。


しかしながら、当然航海は、大きなリスクを負います。

 「板子一枚下は地獄」と言われたほど、危険も大きく、事故に会えば一度に多くの命と財産を失うことになるわけです。

 中でも北海道からの航海は、本来、大消費地である江戸に近い、太平洋側のルートを取りたかったのですが、海が荒れやすく、海難事故が多発したこともあり、比較的に海が穏やかな、日本海ルートが主に使われていたのです。

 ですので多くの食品が、まず大阪に集まり、関西周辺で加工されて、江戸に運ばれると言う流通になっていたのです。こうした食品を江戸では「下りもの」と呼んで珍重しており、逆に江戸周辺で作られたものは品質が粗雑なものが多かったため、「下らないもの」と呼ばれ、下級品として扱われ、これが現在使われている「くだらない」という言葉の語源になったと言われています。

 江戸時代初期、ニシンと並んで北海道からの主要な船荷の一つであった昆布も、当然、松前(北海道)から、敦賀・若狭(福井)を経て、大阪・京都へと言う経路で入ってきており、経過地であった福井県は昆布の消費量も多く、たくさんの昆布加工品が作られています。

 さらに江戸時代中期になって、北海道から関門海峡を回り、瀬戸内海を通って、陸路を使わずに大阪に入る西回り航路を開拓されると、昆布は、さらに大量に安く、早く、安全に輸送されることとなり、航海で程よく熟成された大阪の昆布は、太平洋航路で直接江戸に運ばれた昆布より、美味しいと評判となり、当時大阪は日本最大の昆布集積地となっていきました。

 この時、江戸にとって不幸だったのは、大阪から昆布が運ばれる中で、質の良い昆布はほとんど江戸に着くまでに売れてしまい、質の悪い昆布のみが届けられたことでした。江戸で「だし」文化が育たなかったのは、この流通の仕組みも大きな理由の一つだったのです。

 大阪には江戸時代初頭から昭和6年(1931)までの310年間、現在の大阪市西区靱(うつぼ)本町2丁目あたりに、幕府より「永代諸魚干鰯市場揚場(えいたいしょぎょほしかしじょうあげば)」として許可され「永代浜(えいたいはま)」と呼ばれた場所に、塩干魚・鰹節・昆布・干鰯(ほしか)の問屋が所狭しと軒を連ねていました。この地において、天下の台所を支えていたのが船場商人です。

 船場商人とは、太閤秀吉が、大坂を商都とすべく、京都より伏見商人、堺より堺商人、河内より平野商人を船場(大阪市中央区)に集めて城下町を形成したのが起こりで、この三者を総称して「船場商人と呼んだそうです。現在大阪の船場の地に「伏見町」「平野町」と名が付く町があるのはそのころの名残だといわれています。この船場商人たちが明治以降、「食い倒れ」の町として大阪を有名にし、食文化そのものを発展させる過程で、関西で「昆布だし」が生まれました。

 そして当時の大阪の中心地であった船場の料理人達が、その技術と経験を通して、昆布とかつお節との「うま味」の相乗効果に気付き、のちに「昆布以前と昆布以降とでは、味覚の歴史が変わった」と言われる、現在の和食のベースである「合わせだし」を作り上げ、現在の和食の基本である「だし」を全国に広める基礎を作ったのです。

<昆布の歴史①>

 

 「関西だし」になくてはならない「だし」食材の一つである昆布。この「昆布だし」は、江戸時代に大阪で生まれ、京都で確立されたと言われていますが、昆布自体の歴史は古く、初めて文献に登場するのは、797年(延暦16年)に完成した史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」の中で、今から1300年以上前の奈良時代「715年(霊亀(れいき)元年)10月、現在の北海道を指す蝦夷(えびす)の酋長である須賀君古麻比留(すがのきみこまひる)は朝廷に対して先祖以来、昆布を献上し続けていると報告した」という記述があります。

 昆布は、東北以北でしか育たず、今も昔もその90%以上が北海道産です。

 まだ物流ルートが確立していない当時、北海道から奈良の都まで運ばれていた昆布がいかに貴重であったかは容易に想像できますし、実際その価値は金と同等だったとも言われ、食品というよりは薬として珍重されていたようです。

 平安時代中期にあたる927年(延長5年)に完成した文献「延喜式(えんぎしき)」には、昆布は租税として指定され、朝廷が行なう仏事や神事に欠かせないものとして何度も登場しています。

 鎌倉時代に入ると、日本料理の起源となった精進料理が仏教文化とともに大陸から伝来し、植物である昆布は寺院にとって使い勝手のよい、応用のきく食材として重宝されたようです。

 幕府が京都に移った室町時代の初期に作られた、武士家庭や寺子屋の初等教科書である「庭訓往来(ていきんおうらい)」の中には「宇賀(うが)昆布」の記述があり、当時京都でも昆布が知られていたことが判ります。ちなみに宇賀とは、函館港の本州よりの地域の古名で、このことから当時の出荷ルートがうかがえます。

 また、この時代に作らたと言われる狂言「昆布売(こぶうり)」には、若狭の小浜市(おばまし)から京都へ昆布を売りに行く行商人が登場しており、この頃すでにまとまった量の昆布が北海道から若狭小浜経由で京都へ陸路で運ばれていたことが判ります。これにより小浜は、江戸時代中期まで北海道物産の最大取引地として栄え、現在でも若狭周辺では、昆布や昆布加工品の会社が多く存在しています。

 そして戦国時代に入ると、保存に優れ、携帯にも便利だった昆布は兵糧としても使われ、さらに戦闘の勝利につながる「打ち、勝ち、喜ぶ」の語呂合わせから、アワビの肉を細長く切り、打ち延ばして干した「打ち」アワビや、栗の実を殻のまま干して、臼で「かち」(つくの古語)、殻と渋皮とを取った「カチ栗」とともに縁起物としても好まれたようです。


安土桃山時代には、思わぬところで昆布が活躍していたという説があります。
それは豊臣秀吉が「大阪城」築城のとき、石垣を築くための巨大な石を運ぶのに昆布を使ったというのです。

 当時、石の運搬には 「修羅」と呼ばれる木製のソリが使われており、その下に「コロ」と呼ばれた丸太を敷いて動かすわけですが、そのコロの下にぬらした昆布を敷き、そのぬめりを利用して滑りを良くして巨石を運んだと言い伝えられています。しかも、その後役目を終えて町に残された大量の乾いた昆布を、もったいないと大阪の商人たちが醤油で煮たのをきっかけに、大阪に昆布文化が 定着したとの話もあり、本当かどうかはともかく、そういう話がでるぐらい、大阪と昆布は切っても切れない関係にあったことが判ります。

 さて、こうして関西でも定着した昆布でしたが、江戸時代に入っても、若狭から陸路では、たいした量は運べず、昆布はまだまだ高級品で、縁起物として冠婚時など「ハレの日」にのみ食べる貴重な食べ物だったようです。

 この昆布が庶民の食べ物となったのは、江戸時代、「御用商人(ごようしょうにん)」と呼ばれた幕府お抱えの商人であった河村瑞賢(かわむらずいけん)が、幕府の命を受け、1672年(寛文12年)に日本海沿岸を西廻りに、蝦夷(北海道)から敦賀、下関、瀬戸内海などを経て大阪に至り、さらに紀伊半島を迂回して江戸に至る「西回り航路」と呼ばれる海上輸送ルートを開拓したことがきっかけです。

 このルートは「昆布ロード」と呼ばれ、昆布をはじめとした蝦夷地(北海道)の物産が、「北前船(きたまえぶね)」によって大阪まで大量に、安く、早く、安全に届くこととなり、結果、昆布は安価で庶民にも求められやすい食材となったわけです。

<「だし」と「水」の関係>

 

 「だし」と言えば、当然、水を使って煮出すものですが、その水の性質によって、「だし」の味は大きく左右されます。

 水には、硬度と言う基準があります。これは、水に含まれる主な「ミネラル分」である「カルシウムイオン」と「マグネシウムイオン」の量を表した数値です。計算方法は国などによって、色々あるようですが、簡単に言うと、「ミネラル分」が多いのが「硬水」で、少ないのが「軟水」と呼ばれています。WHO(世界保健機関)の基準では120mg/L以下が軟水、120mg/L以上が硬水とされています。

 水の「ミネラル分」は、雨水や雪解け水が、大地に染み込み、川や地下水となって流れて行く過程で、周囲の地層の「ミネラル分」が、少しずつ溶け込んだものです。日本の水のほとんどは硬度50~60の「軟水」なため、日本人には「軟水」が好まれ、日本で作られるミネラルウォーターのほとんどが硬度40以下となっています。

 それに対し、有名なフランスのミネラルウォーター「エビアン」の硬度は304と、日本の水の5倍以上の硬度の「硬水」ですし、南フランスの天然の炭酸水である「ペリエ」は硬度が417もあります。さらにヨーロッパや北米には、硬度が1000を超える「硬水」のミネラルウォーターが多く存在します。

 これはヨーロッパや北米などでは、石灰質でカルシウムを多く含む4000m級の山々が多く、その地層を、地下水がゆっくりと通り抜けることによって、硬度の高い水を作り上げます。それに対し日本では、雨が多く、水が流れやすい火山性の地層が多い上に、高い山が少なく、傾斜も急なため、あっという間に地下水が通り抜け、ミネラル分をあまり含まない軟水が作られます。

 余談ですが、日本人は世界的に見て、塩分の摂取量が多いと言われていますが、これは、硬度の高い水で日常的にミネラル分を取ることができる他国に比べて、軟水の日本では、塩でミネラル分を取る必要があったことが原因だとも言われています。

 つまり日本人にとって、塩は生きていく上でなくてはならない調味料だったわけです。そんな逸話の一つに、「しおらしい」という言葉の語源があります。一般的には、「しおらしい」の語源は、草木がしおれる様子からだと言われていますが、別の説として、昔、山間部の人たちは塩が不足し、そのため塩は高価であっため、女たちに色仕掛けで、通りがかりの商人や旅人の持っている塩を巻き上げさせていたことがあり、その結果、山中で恥ずかしそうに言い寄ってくる女の狙いは「塩らしいから気をつけろ!」と言う噂が広まり、町では、健気で殊勝な態度の女性を指して、「しおらしい」という言い方が定着したいう、いかにもそれらしい話があります。そんな話が生まれるぐらい、塩は必要なものだったということですね。

 

 さて、では水の硬度が、どういう風に「だし」の味に影響するのでしょう?

 「硬水」は、その性質上、食材の灰汁(あく)を出しやすいため、料理に使うと、素材のアクを出して、臭いを取り除く効果があり、肉を使った煮込み料理などに向いています。しかし、「だし」のように、うま味を抽出するには、「硬水」ではミネラル分が邪魔をして、上手く「うま味」を取り出せません。特に昆布は「硬水」で取ると、「だし」が出にくく、昆布臭さが際立ってしまいます。

 日本の中でも、ヨーロッパほどではないにしろ、富士山のある関東などには、比較的水の硬度が高い地域があります。関東で、「昆布だし」が定着しなかった一つの原因は、この水の性質のためだとも言われています。

 現在でも、「だし」が出にくいなと思ったら、浄水器を通し、余分なミネラルを除去することで、より美味しい「だし」が取れるかもしれません。もし、「だし」を取るのに、ミネラルウォーターを使用する場合は、出来る限り硬度の低い「軟水」を使いましょう。

 

<関東だしの特徴と歴史>

 

関西だし」と比較して言われる「関東だし」の特徴は、一般的に色が黒く、塩辛いと言うものですが、この特徴はどういう風に出来上がったのでしょうか?

 濃い味付けを好むようになった原因は、江戸時代の庶民の生活にあったと言われています。江戸の町は、徳川時代に新たに生まれた都市ですから、そこに住んでいた人達のほとんどは、地方からやってきた武士や職人、商人、及び日雇い労働者などの、いわゆるフリーターだったそうです。

 結果、女性より男性の人口が圧倒的に多く、生涯独身の男性が半数以上を占めていたそうです。

 これらの男性は、基本的に肉体労働者で、汗をかく仕事ですから、当然塩分を多く必要としたわけです。さらに当時の江戸庶民の生活は、決して裕福ではなく、その食事の基本は、ご飯、味噌汁、漬物、一品という、とてもシンプルな「一汁一菜」だったようですが、江戸は将軍のお膝元であり、全国から年貢米も集まり、米の流通システムも整備されていたため、長屋の住民でも、よほど貧乏人でない限り、精米した白米を食べることができました。これが江戸っ子の自慢の一つだったようで、その量は、成人男性で、1日約5合、ご飯にすると2kg近く食べていたという記録も残っています。

 肉体労働者が、この大量のご飯を、少ないおかずで食べるわけですから、おのずと副食の味付けは濃いものが好まれることになったというわけです。

 ちなみに、白米のみを大量に食べ続けた結果、雑穀を白米に混ぜて食べていた地方に比べて、江戸っ子は大幅に「ビタミンB1」等が不足し、「江戸わずらい」と呼ばれた脚気(かっけ)が流行し、死者も多数出ていたという記録が残っており、13代将軍の徳川 家定(とくがわ いえさだ)の死因も脚気が原因だと言う説もあります。

 脚気は、なんと昭和初期まで、結核と並ぶ二大国民病と呼ばれ、多いときは年間2万人を超える死者を出していた、恐ろしい病気だったようです。

 昭和中期ごろから、庶民の生活が豊かになり、栄養が行き届いたことで、その数は激減したのですが、江戸時代も、ビタミンB1を多く含む「そば」を食べることで、脚気が予防できることを経験的に判っていたようで、漢方療法としても使われており、東京で「そば文化」が根付いた原因の一つだと言われています。

 この「そば文化」が定着したことも、実は「関東だし」が塩辛い原因となっています。

 香りを重要視する「そば」は、濃厚な「つけだし」を少量つけて食べるのが基本であるため、「かけだし」においても、「つけだし」に使用する「返し」と呼ばれる醤油に砂糖、味醂を加えた濃厚な調味料を使用し、「つけだし」の延長的な考えから、「だし」を飲み干すことが前提とならず、濃い目の「かけだし」となったと思われます。

 また、「だし」によって味に「うま味」を加える関西に比べると、関東はどちらかと言うと醤油で「うま味」を足す文化ですが、その理由は、関東の水は、関西に比べてミネラルが多く、「だし」が出にくかったことと、「関西だし」の主食材である昆布が、江戸時代の物流の関係で、質の良い商品が関西に集中し、関東にほとんど入らなかったことが上げられます。

 こうした結果、関東では、関西のように昆布とかつお節の「合わせだし」は発展せず、かつお節などの節を厚削りにし、長時間煮出す、濃厚な“おだし”を取る文化が定着しました。

 そうすることで、濃い「だし」は取れますが、当然雑味やクセも強くなり、それに負けない調味料が必要となりました。

 それには良質な「だし」を前提とした関西の「うすくち醤油」では物足らず、結果、江戸近郊の現在の千葉県、野田、銚子で「うま味」が強く濃厚な「こいくち醤油」が生まれたと言われ、醤油の一大産地として大きく発展しました。

後に野田からは「キッコーマン」、銚子からは「ヤマサ醤油」「ヒゲタ醤油」と言った日本で数夕の醤油メーカーが誕生し、今や「こいくち醤油」は日本人が使う醤油の8割以上を占めています。

このようにして、濃い味付けを好む関東人に合わせ、かつお節で濃厚に取ったおだしに、しっかりとした“うま味”のある濃口醤油をたっぷり使った「関東だし」が生まれたというわけです。