出汁素材「かつお節」Ⅱ

<「かつお節」の歴史>

 

 現在の「かつお節」製法の基礎は、江戸時代、和歌山県印南(いなみ)町の2代目角屋甚太郎によって発明され、「改良土佐節」として、当初、紀州藩と土佐藩のみの門外不出の秘伝として、長らく守られていました。

 甚太郎は、たまたま土佐から妻とともに、故郷である印南町に滞在していた1707年10月28日(旧暦:宝永4年10月4日)に、不幸にも江戸時代最大級の地震「宝永南海地震」、いわゆる南海トラフ地震が起こり、その時発生した津波で亡くなったことが判っています。

 現在、2代目甚太郎の功績を讃え、甚太郎が亡くなった10月28日を、株式会社太鼓亭が印南町と連携して日本記念日協会に申請し、「おだしの日」として、登録しました

 

 さて、紀州藩と土佐藩のみの門外不出の秘伝となった「かつお節」製法は、いかにして日本中に広がっていったのでしょうか。

 まず、最初にこの製法を手に入れたのは、今や「かつお節」製造のなんと70%以上のシェアを誇る、断トツ日本一の鹿児島県、つまり薩摩藩でした。当時、薩摩藩は江戸幕府の鎖国政策により、海外貿易の窓口を長崎に限られ、収入源であった中国との貿易を禁じられたため、大変な財政難に陥っていました。そこで力を入れたのが、比較的漁獲量の多かった鰹を利用した「かつお節」製造でした。しかし、技術はまだまだ未熟だったため、どうしても土佐節にはかないません。

 そのため、薩摩藩は印南の高い技術に目をつけ、「かつお節」職人の引き抜きに動きます。この時、薩摩藩に引き抜かれたのが、印南の漁師であり、優秀な「かつお節」職人であった人物が「森 弥兵衛(もりやへえ)」です。

 しかしなぜ弥兵衛は、そんなことをすれば2度と紀州に戻れなくなることを承知で、当時紀州藩、土佐藩の門外不出の秘伝であった2代目角屋甚太郎が考案した「かつお節」製法を薩摩藩に伝えてしまったのでしょう。

 実は弥兵衛が、薩摩藩に製法を伝えた年というのは、2代目角屋甚太郎が亡くなった「宝永南海地震」があった1707年(宝永4年)だったことが判っています。憶測ではありますが、弥兵衛も、通常の状態なら藩の掟を破ってまで、薩摩藩に肩入れする理由はなかったでしょうが、当時、地震の大津波の影響で壊滅的な被害をうけた印南町に将来を見通せず、未練をなくしてしまっていたのかもしれません。

 まさにこの1707年10月28日(旧暦:宝永4年10月4日)に発生した地震「宝永南海地震」は、「だし」の歴史を語るうえで、大きなターニングポイントだったわけです。

 その後「薩摩節」の製造は、森 弥兵衛から伝えられた「かつお節」製法により、急速に品質が向上していき、1700年前半までは全国的には全く知られていなかった「薩摩節」が、1700年の半ばより浮上し、1700年後半となる寛政年間には、国の最南に位置する薩摩で作られ、流通面では不利であったはずの「薩摩節」が、それを品質の良さで跳ね返し、突如として全国一流品にのし上がっていたことが、数々の文献から明らかになっています。

 ちなみに弥兵衛は、技術の伝承後、薩摩藩に温かく迎え入れられ、1714年(正徳4年)10月20日、鹿児島でその生涯を閉じたそうです。

 さてこうして、2代目角屋甚太郎の考案した秘伝の「かつお節」製法は薩摩藩に伝授されてしまったものの、それ以降は門外不出の掟はさらに強化され、その後70年以上秘伝の製法が、紀州藩、土佐藩以外に洩れることはなく、さらにその製法は、改良、改善され、その品質は高くなっていきました。

 中でもその技術を大きく発展させたのが、1758年(宝暦8年)に印南町で生まれた「かつお節」職人の善五郎、後の「印南與一(いなみよいち)」です。

 與一は、20代半ばには印南漁民が多く滞在し、「かつお節」を作っていた土佐において、鰹を燻す焙乾の方法や、かび付けの方法などを改良して有名となり、土佐與一(とさよいち)と呼ばれるようにまでなっていました。

 しかし、土佐藩においても、1707年(宝永4年)に発生した「宝永南海地震」以降、「かつお節」製造が、徐々に衰退しており、「かつお節」作りに行き詰まりを感じた與一は、30歳ごろ土佐を飛び出て、東国の港町を転々とする旅に出たのです。

 しかし当てもない旅で與一はかなり貧窮していたようで、そんな中、現在の千葉県南房総市(みなみぼうそうし)千倉町(ちくらちょう)にあたる安房国(あわのくに)南朝夷村(みなみあさいむら)にたどり着いた時、村の網元であった「渡辺久右衛門(わたなべ きゅうえもん)」に厚遇され、その温かい人情にふれた與一は、掟を破り、「かつお節」製造の秘法を伝授してしまいました。この製法は瞬く間に、南朝夷村を中心に近隣各地に普及し、安房国の「かつお節」の品質を一変させ、「安房節(あわぶし)」や房州熊野節を略した「房熊節」などと呼ばれ、江戸の市場で、土佐節と並んで大人気となり、安房国の漁業は大いに栄えたそうです。

 與一はその後、安房国の噂を聞いた現在の静岡県賀茂郡西伊豆町にあたる伊豆安良里(いず あらり)に招かれ、そこでも秘伝の製法を教えています。こうして與一の伝えた「かつお節」製法により、土佐や薩摩など遠方に頼っていた「かつお節」事情は大きく変わり、関西の“昆布だし文化”に対し、関東に“かつお節文化”が根付くきっかけとなったわけです。

 当の與一は、50歳になったころ、望郷の念にかられて、故郷紀州印南村に帰りますが、当然與一のやったことは紀州藩にも伝わっており、掟を破った與一は入村を許されず、追い返されてしまいます。その後、與一は、しかたなく安房に戻り、再び渡辺久右衛門の世話となり、日夜「かつお節」作りに努めたそうで、1816年(文化12年)3月23日、風邪をこじらせ、58歳でその生涯を安房の地で終えました。

 このようにして東西に広がった2代目角屋甚太郎が考案した「燻乾(くんかん)カビ付け法」は、それぞれの地でさらに独自の改良が加えられ、明治時代には、高知の「土佐節」鹿児島の「薩摩節」静岡の「伊豆節」が、「かつお節」の三大名産品と呼ばれるようになり、「和食」を支える「だし」の要として、進化、発展してきたわけです。

 現在その生産量は鹿児島産が約70%、静岡産が約25%、高知産が約1%と大きく差は開きましたが、この3県が「かつお節」生産量のトップ3であることは今も変わっていません。