出汁素材「昆布」Ⅱ

<「昆布だし」の歴史>

 

 昆布自体は奈良時代以前から、日本人の生活に関わってきた食材ですが、「だし」として昆布が活躍し始めたのは、江戸時代の初期だと言われています。江戸時代初期の代表的な料理書である「料理物語」1664年(寛文4年)の正月版には、昆布が精進の「だし」として使用されていることが紹介されており、「昆布だし」が料理の基本となっていたことが判ります。

 ただ、江戸時代この「昆布だし」をもっとも活用していたのは、やはり大阪京都など関西でした。


なぜ、関西だったのでしょう?

 北海道から遠い関西より、関東の方が昆布を仕入れ易いように思いますが、実は江戸時代、昆布のほとんが関西を通って全国に出荷されていました。

 当時の輸送手段は、当然ながら船が中心で、「北前船(きたまえぶね)」と呼ばれたその船の役割は、単に荷物を運ぶと言うよりは、各地の物産を売り買いしながら航海をする、動くマーケットのような存在で、廻船問屋(かいせんどんや)とも呼ばれた船問屋は、一航海すれば今の貨幣価値で言うと、1億円程度の収益が上がったと言われています。


しかしながら、当然航海は、大きなリスクを負います。

 「板子一枚下は地獄」と言われたほど、危険も大きく、事故に会えば一度に多くの命と財産を失うことになるわけです。

 中でも北海道からの航海は、本来、大消費地である江戸に近い、太平洋側のルートを取りたかったのですが、海が荒れやすく、海難事故が多発したこともあり、比較的に海が穏やかな、日本海ルートが主に使われていたのです。

 ですので多くの食品が、まず大阪に集まり、関西周辺で加工されて、江戸に運ばれると言う流通になっていたのです。こうした食品を江戸では「下りもの」と呼んで珍重しており、逆に江戸周辺で作られたものは品質が粗雑なものが多かったため、「下らないもの」と呼ばれ、下級品として扱われ、これが現在使われている「くだらない」という言葉の語源になったと言われています。

 江戸時代初期、ニシンと並んで北海道からの主要な船荷の一つであった昆布も、当然、松前(北海道)から、敦賀・若狭(福井)を経て、大阪・京都へと言う経路で入ってきており、経過地であった福井県は昆布の消費量も多く、たくさんの昆布加工品が作られています。

 さらに江戸時代中期になって、北海道から関門海峡を回り、瀬戸内海を通って、陸路を使わずに大阪に入る西回り航路を開拓されると、昆布は、さらに大量に安く、早く、安全に輸送されることとなり、航海で程よく熟成された大阪の昆布は、太平洋航路で直接江戸に運ばれた昆布より、美味しいと評判となり、当時大阪は日本最大の昆布集積地となっていきました。

 この時、江戸にとって不幸だったのは、大阪から昆布が運ばれる中で、質の良い昆布はほとんど江戸に着くまでに売れてしまい、質の悪い昆布のみが届けられたことでした。江戸で「だし」文化が育たなかったのは、この流通の仕組みも大きな理由の一つだったのです。

 大阪には江戸時代初頭から昭和6年(1931)までの310年間、現在の大阪市西区靱(うつぼ)本町2丁目あたりに、幕府より「永代諸魚干鰯市場揚場(えいたいしょぎょほしかしじょうあげば)」として許可され「永代浜(えいたいはま)」と呼ばれた場所に、塩干魚・鰹節・昆布・干鰯(ほしか)の問屋が所狭しと軒を連ねていました。この地において、天下の台所を支えていたのが船場商人です。

 船場商人とは、太閤秀吉が、大坂を商都とすべく、京都より伏見商人、堺より堺商人、河内より平野商人を船場(大阪市中央区)に集めて城下町を形成したのが起こりで、この三者を総称して「船場商人と呼んだそうです。現在大阪の船場の地に「伏見町」「平野町」と名が付く町があるのはそのころの名残だといわれています。この船場商人たちが明治以降、「食い倒れ」の町として大阪を有名にし、食文化そのものを発展させる過程で、関西で「昆布だし」が生まれました。

 そして当時の大阪の中心地であった船場の料理人達が、その技術と経験を通して、昆布とかつお節との「うま味」の相乗効果に気付き、のちに「昆布以前と昆布以降とでは、味覚の歴史が変わった」と言われる、現在の和食のベースである「合わせだし」を作り上げ、現在の和食の基本である「だし」を全国に広める基礎を作ったのです。