出汁素材「昆布」Ⅰ

<昆布の歴史①>

 

 「関西だし」になくてはならない「だし」食材の一つである昆布。この「昆布だし」は、江戸時代に大阪で生まれ、京都で確立されたと言われていますが、昆布自体の歴史は古く、初めて文献に登場するのは、797年(延暦16年)に完成した史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」の中で、今から1300年以上前の奈良時代「715年(霊亀(れいき)元年)10月、現在の北海道を指す蝦夷(えびす)の酋長である須賀君古麻比留(すがのきみこまひる)は朝廷に対して先祖以来、昆布を献上し続けていると報告した」という記述があります。

 昆布は、東北以北でしか育たず、今も昔もその90%以上が北海道産です。

 まだ物流ルートが確立していない当時、北海道から奈良の都まで運ばれていた昆布がいかに貴重であったかは容易に想像できますし、実際その価値は金と同等だったとも言われ、食品というよりは薬として珍重されていたようです。

 平安時代中期にあたる927年(延長5年)に完成した文献「延喜式(えんぎしき)」には、昆布は租税として指定され、朝廷が行なう仏事や神事に欠かせないものとして何度も登場しています。

 鎌倉時代に入ると、日本料理の起源となった精進料理が仏教文化とともに大陸から伝来し、植物である昆布は寺院にとって使い勝手のよい、応用のきく食材として重宝されたようです。

 幕府が京都に移った室町時代の初期に作られた、武士家庭や寺子屋の初等教科書である「庭訓往来(ていきんおうらい)」の中には「宇賀(うが)昆布」の記述があり、当時京都でも昆布が知られていたことが判ります。ちなみに宇賀とは、函館港の本州よりの地域の古名で、このことから当時の出荷ルートがうかがえます。

 また、この時代に作らたと言われる狂言「昆布売(こぶうり)」には、若狭の小浜市(おばまし)から京都へ昆布を売りに行く行商人が登場しており、この頃すでにまとまった量の昆布が北海道から若狭小浜経由で京都へ陸路で運ばれていたことが判ります。これにより小浜は、江戸時代中期まで北海道物産の最大取引地として栄え、現在でも若狭周辺では、昆布や昆布加工品の会社が多く存在しています。

 そして戦国時代に入ると、保存に優れ、携帯にも便利だった昆布は兵糧としても使われ、さらに戦闘の勝利につながる「打ち、勝ち、喜ぶ」の語呂合わせから、アワビの肉を細長く切り、打ち延ばして干した「打ち」アワビや、栗の実を殻のまま干して、臼で「かち」(つくの古語)、殻と渋皮とを取った「カチ栗」とともに縁起物としても好まれたようです。


安土桃山時代には、思わぬところで昆布が活躍していたという説があります。
それは豊臣秀吉が「大阪城」築城のとき、石垣を築くための巨大な石を運ぶのに昆布を使ったというのです。

 当時、石の運搬には 「修羅」と呼ばれる木製のソリが使われており、その下に「コロ」と呼ばれた丸太を敷いて動かすわけですが、そのコロの下にぬらした昆布を敷き、そのぬめりを利用して滑りを良くして巨石を運んだと言い伝えられています。しかも、その後役目を終えて町に残された大量の乾いた昆布を、もったいないと大阪の商人たちが醤油で煮たのをきっかけに、大阪に昆布文化が 定着したとの話もあり、本当かどうかはともかく、そういう話がでるぐらい、大阪と昆布は切っても切れない関係にあったことが判ります。

 さて、こうして関西でも定着した昆布でしたが、江戸時代に入っても、若狭から陸路では、たいした量は運べず、昆布はまだまだ高級品で、縁起物として冠婚時など「ハレの日」にのみ食べる貴重な食べ物だったようです。

 この昆布が庶民の食べ物となったのは、江戸時代、「御用商人(ごようしょうにん)」と呼ばれた幕府お抱えの商人であった河村瑞賢(かわむらずいけん)が、幕府の命を受け、1672年(寛文12年)に日本海沿岸を西廻りに、蝦夷(北海道)から敦賀、下関、瀬戸内海などを経て大阪に至り、さらに紀伊半島を迂回して江戸に至る「西回り航路」と呼ばれる海上輸送ルートを開拓したことがきっかけです。

 このルートは「昆布ロード」と呼ばれ、昆布をはじめとした蝦夷地(北海道)の物産が、「北前船(きたまえぶね)」によって大阪まで大量に、安く、早く、安全に届くこととなり、結果、昆布は安価で庶民にも求められやすい食材となったわけです。